中河原の賑わい
江戸時代、長良川の舟運は非常に盛んであった。
川湊も上流から上有知湊(美濃市)・小瀬湊(関市)などがあり、美濃の持産物である材木・美濃紙・茶・関の刃物類が運ばれ、中河原湊(岐阜市湊町)を経由して、四方へ販売された。
また、下流の桑名湊からは、伊勢湾の海産物である塩・魚介類・昆布などが中河原湊へ着荷し、ここから、各方面へ移送されていった。
これらの物資(積荷)には通行税が課せられ、それを徴収する長良川役所が、尾張藩によって中河原に設置された。その役所記録によると、享保八〜十年(一七二三〜二五)の三ヶ年の、一平均、中河原湊から下った舟数は一千七百艘と記録されている。
現在の川原町風景(十八楼周辺)
十八楼の前身・山本屋
当時の中河原湊は、これら舟運に従事する船頭や、多くの物資を売買する商人たちで賑わい、長良川畔には商家・船宿などが軒を連ねていた。
これらの舟宿の一つが、現十八楼の前身・山本屋と考えられ、その創業の歴史は古く、江戸時代の天保期(一八三〇〜四四)に遡る。
しかし、史料に見られる創業年代は、江戸末期の万延元年(一八六〇)である。
十八楼遺跡の再興
その史料(「三十四楼記」)によると、中河原湊に当時、「山本屋」という水楼(旅館)があった。この旅館の主人は、かつて俳聖・松尾芭蕉が岐阜を訪れた時、長良川畔にあった賀嶋 歩の水楼で鵜飼観覧をした後、 歩の需によって、水楼名をつけた「十八楼」の遺跡が、一七〇年余の星霜を経て廃絶したのを再興しようと一念発起した。(屋号も十八楼と改称する)
当時、このあたりの風景は、貞享五年(一六八八)の夏に、芭蕉が記した「十八楼の記」の中で詠んだ「このあたりめにみゆるものは皆涼し」の風情とほとんど変っていなかった。
十八楼初代山本屋
火災のため、一部破損
三十四の美景・三十四楼
天保十四年(一八四三)九月、尾張藩主徳川斎荘の来岐のとき、「黄池なにがし」(長良の豪商・酒造業を営む)で、鵜飼上覧の栄誉があり、藩主から庭の見事さを称えられて、大きな石燈籠を下賜された。このことは、黄池一家のみならず、この地域全体の誇りでもある。
とくに、夏の夜の鵜飼情景は、きわめて勝れており、山本屋の水楼から眺める風情は、瀟湘・西湖の十八景以上で、南都八景と近江八景をも合わせた三十四の美景といえる。
それ故に、この水楼は、十八楼ではなく、「三十四楼」と言うべきである。そして最後に結びとして、「涼かぜのなくてもありぬこのあたり」と詠んでいる。
この文は、山本屋(十八楼)の主人に乞われて、万延元年(一八六〇)の夏に書かれたものであるが、残念ながら作者は不明である。しかし、この見事な文体や、芭蕉の故事に詳しいことから、可成りの文人と考えられる。
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尾張藩主鵜飼上覧の場所(黄色は鵜匠の家)
[岐阜市史史料編近世一長良家並絵図 大野茂氏所蔵]
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南都八景
(奈良八景とも言う) |
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東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、佐保川の蛍、雲井坂の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪 |
近江八景 |
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瀬田の夕照、石山の秋月、粟津の晴嵐、三井の晩鐘、唐崎の夜雨、比良の暮雪、堅田の落雁、矢橋の帰帆などの琵琶湖の景勝地 |

三十四楼記(万延元年・1860)
三十四楼記(読解)
爰に山本屋といふ水楼有。此家のあるじ、
かの祖翁の
このあたりめにみゆるものは皆涼し
其十八楼のすたれたるをひろひ、絶たるを
つがむとのこころざし浅からず。もとよりこの辺りの風景は瀟湘西湖の一味をこめたること、貞享五仲の夏の記に失せたるものなく、
豈また勝れたるは、いなばの峯の盛の頃は
花のしら雲にまどひ、たなかの寺、きしにそふ
民村は、杉のみどり、竹のかこみも猶深めり。
さらし布所々にあとたれて、いよ増れり。
わたし舟うかぶ里人の往かひ、いにしへに倍せり。
漁村軒をならべしも、今なほことなり、
黄池なにがしのかたには、鵜飼
上覧のうてなをたて、その庭の面を花の園とか
美称をいただき、高く大なる石燈籠は又
めぐみなるとかや。これ黄池一家のほまれならず、
一郡の光輝なるべし。
夏のよなよなをはじめ、鵜舟のかがり火遠くより
近くなり、めざましき風情、此の高欄にとどめて
瀟湘西湖はさらなり、南都の八つのながめ、近江の
佳景をもこめて、三十四楼ともいはまほしや。
涼かぜのなくてもありぬこのあたり
(一八六〇)
万延紀元の首夏、需によつて
(この項は、岐阜市歴史博物館 筧学芸員のご教示による)

鵜飼総がらみ(大正時代)
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