長良川温泉 十八楼物語 | 長良川温泉 十八楼 創業160有余年

松尾芭蕉と美濃

松尾芭蕉は、『笈の小文』(俳諧紀行・芭蕉著)の中で、旅の喜びを「只一日の願ひ二つのみ。こよひよき宿からん。‥‥もし、わづかに風雅の人に出会あひたる、よろこびかぎりなし」と述べている。

芭蕉は、このような旅の喜びを求めて、貞享元年(一六六四)から元禄七年(一六九四)に没するまでの期間、旅の日々を重ねている。

美濃の地へは四回来遊している。
そのはじめは、貞享元年の「甲子吟行」の旅の途次、大垣船町の船問屋・谷木因(芭蕉の旧友・北村季吟同門)を訪ねたとき。第二回は貞享五年(一六八八)の岐阜滞在。第三回は元禄二年(一六八九)、「奥の細道」の結びの地としての大垣滞在。最後の来遊は、元禄四年(一六九一)冬、京都より近江・美濃を通って江戸へ帰る途中で、垂井・大垣に立ち寄っている。

 

松尾芭蕉と美濃

松尾芭蕉と岐阜

芭蕉は高名な俳諧師だったので、地方へ出れば、必ずその地の俳人仲間が手厚いもてなしで迎え入れた。

中部地方では、名古屋・熱田・鳴海・大垣・さらに、岐阜の地にも、そういう仲間がおり、元禄期(一六八八~一七〇四)の岐阜俳壇の隆盛は、大垣に劣るものでなく、その中心は安川落梧であった。

落梧は、岐阜本町の人で、通称助右衛門といった。京都と取り引きする呉服小間物商で、屋号を萬屋という。岐阜屈指の富豪であり、一面すぐれた人格者で世の信望厚く、岐阜俳壇の大御所として、月々、俳筵(句会)を開いて蕉風の普及につとめた。

芭蕉の岐阜来遊も、落梧の度重なる鵜飼見物の招きに応じたものである。貞享五年(一六八八)六月、岐阜妙照寺の僧で俳人でもあった己百の案内で来岐し、 多くの岐阜俳人仲間の出迎えを受けて、妙照寺の奥書院に旅装を解いた。(現在、妙照寺に芭蕉滞在の部屋が残っている。岐阜市梶川町)

その挨拶句として、

宿りせむ あかざの杖になる日まで

を物された。
句意は、この家に泊って、あるじの己百の心をこめたもてなしで、とても居心地がよい。このままゆっくりと滞在させてもらいたいものだ。その気持は、いま、庭に小さい花をつけているあかざ(藜、一年生草木。茎は約一メートルに達する)が、秋になって背が高くなり、杖に用いることが出来るようになるまで、 ゆっくりと世話になっていたいものだといっている。親しみ深い、その人格の偲べる句である。

岐阜滞在中、多くの俳人が芭蕉を招待した。まず、安川落梧亭に招かれ、この日名古屋から芭蕉を迎えにきた山本荷兮(名古屋の俳人、医者)と、当時流行の三つ物(俳諧の発句と脇句と第三句をいう)を試みた。

蔵かげの かたばみの花 めづらしや    荷兮
(折てやトモ)
ゆきてや 掃かむ庭に 箒木    落梧
七夕の 八月はものの 淋しくて    芭蕉

ついで、中川原新田(岐阜市湊町)の油屋、賀嶋善右衛門(俳号歩)の水楼(長良川に臨んだ高殿)で遊んだ。主人の求めに応じて楼名を選び、有名な「十八楼の記」を書いた。(現在、「十八楼」の一階ロビー壁面に、芭蕉の「十八楼の記」が展示してある。)

十八楼の記

十八楼の記
十八楼の記(読解)

美濃の国ながら川に望みて水楼あり、あるじを加島氏と云ふ、伊奈波山後にたかく、乱山西にかさなりてちかゝらず、また遠からず、田中の寺は杉の一村にかく れ、岸にそふ民家は竹のかこみの緑も深し、さらし布所々に引きはへて、右に渡し船うかぶ、里人の往かひしげく、魚村軒をならべて網を引き、釣をたるゝおの がさまざまも、たゞ此楼をもてなすに似たり、暮がたき夏の日もわするゝばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすばるゝかがり火のかげもやゝちかうなり て、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見物なりけらし、かの瀟湘の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり、若し此楼に 名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや

  このあたり目に見ゆるものは皆涼し

はせを

  貞享五仲夏


十八楼の記(口語訳)

美濃の国(岐阜)の長良川に面して、川がよく眺められる様になっているたかどのがある。
ここの主を賀嶋氏と云う。金華山が高くそびえており、低い山や高い山が西の方に重なり合って、近くでも、遠くでもない距離に見える。田畑の中にある寺は、杉木立の中にある村にあり、隠れてよく見えない。
岸に沿って建つ民家は、竹の塀の緑もあおあおとしている。白くさらした布がところどころに引き伸ばしてある。右岸には、渡し船が浮かんでおり、そこらあた りに住む人の往来が激しい。漁村(川魚を捕り生計を営む人の集落)が沢山あり、漁師が魚捕りの網を曳いたり、釣をたらして漁をしている。そのような様子 (人々が忙しくそれぞれ働いている光景)も、私のお邪魔している水楼(川に面して建てられている高い建物)でも同じで、皆が忙しく働いていて、私をもてなしてくれている。やがて日が暮れてゆき、夏の日が長いのも忘れる位に日が沈むと、すぐに月が出て、夕日の影が川面の波に写っている。鵜飼の篝火が近くに見 えてきて、私のいる高い建物の下で鵜飼をすると云う、本当に珍しい見物ができたことである。かの有名な中国の瀟湘八つの景色と、西湖の十の地も、すがすがしいこの景色の中にあるように思われる。私のいるこの建物に名前を付けるなら、十八楼とでも本当にいいたい事だなあ。
 「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」
この水楼からの景色は野も川も森も村々も遠い山も総てがすがすがしいことよ

(十八楼女将 伊藤泰子訳)


十八楼の記

瀟湘八景 … 瀟湘二水付近の八カ所の佳景、平沙落雁、遠浦帰歩、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照の総称。近江八景はこれにならった。

瀟湘 … 中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水湘江の別称

西湖 … 中国浙江省杭州の西にある湖。沿岸に丘陵をめぐらし、湖中に島堤があり、付近に岳飛の墳などの名勝古跡が多い。中国の著名な景勝地。

西湖十景
蘇堤春暁   曲院風荷
花港観魚   双峰挿雲
平湖秋月   柳浪聞鶯
南屏晩鐘   三潭印月
断橋残雪   雷峰夕照

またある日、稲葉山(金華山)の麓、長良川の畔りに席を設けて、落梧・荷兮と待望の鵜飼を見た。鵜飼を待つ間、木陰で鮎膾を肴にして酒盛(酒宴)をした。詩趣が盛りあがり、芭蕉はつぎの句を詠む。

またやたぐひ ながらの川の 鮎なます

この長良川の鮎膾は何とたぐいないおいしいものだという思いを表現したもので、「またやたぐひ」と「や」を加えて字余りとすることによって、珍味だなあという感嘆が伝わってくる。
この時の鵜飼見物の句に、

おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉    芭蕉

がある。鵜舟が眼前を遠ざかって行き、水音・風声のみが聞こえる幽寂の世界。華やかな鵜飼が果て、すべてが闇に還る悲しさに芭蕉は心を打たれたのである。
同伴者の落梧・荷兮も、それぞれに句を詠んだ。

鵜の頬に篝こぼれて あはれなり    荷兮
篝火に 見おぼえのある 鵜匠かな    落梧

この時の状況を原史料で紹介する。

原史料

読解文

鵜飼

名にしをへる鵜飼といふ事を見侍らんとて、暮かけていさなひ申されしに、人々いなば山の木かげに席をまうけ、盃をあげて
またやたくひながらの川の鮎なます
ぎふの荘ながら川のうかひとて、よにことごとしう云のゝしる、まことや其の興人のかたり伝ふるにたがはず、浅智短才の筆にもことばにも尽くすべきにあらず、心しれらん人に見せばやなど云ひて、やみぢにかへる此身の名ごりをしさをいかにせむ。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

また、落梧が伊奈波神社へ芭蕉を案内しての帰途、その麓の閑静な浄土院(今の万力町大泉寺の西側にあった浄土宗寺院。明治初年廃寺)で俳筵を開き、旅情をなぐさめた。
その時の句は、前書があり、つぎのようである。

落梧何かしのまねきに
応じて いなばの山の松
の下涼して 長途の愁
をなくさむほとに
山かけや 身を養む 瓜はたけ     はせを
石井の水に あらふかたひら     らくこ
貞享五年  (芭蕉)
桃青
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芭蕉句碑
岐阜市伊奈波通、伊奈波神社境内。
高さ40cm程の円筒形の碑。表には「芭蕉翁」「山かけや…」の句は後側に彫られているが、剥落が著しい。安永6年(1777)建立。

稲葉山の山かげ、ここは大変に涼しくて安らいだ気持になる。それは、岐阜の人々の好意につつまれているからだ。この山麓で旅の疲れをいやそう。そこには自分の大好物の真桑瓜畑もあることだからという、落梧の好意を受けて、温い心でこれに応えている。
落梧はこの瓜畑にちなんで「瓜畑集」編集を立てたが、成らずして没した。
のちに、各務支考(蕉門十哲の一人、美濃派の祖)の『笈日記』に収録された。
また、ある日、梶川町の有力者、松橋喜三郎の招きを受けて、芭蕉はここを訪れ、つぎの句を吟じた。

城跡や 古井の清水 まず訪はむ

岐阜城城跡は金華山の岐阜城址のこと。城は鎌倉時代の建仁年中(一二〇一~〇四)に二階堂行政が築いたのにはじまり、応仁の頃(一四六七~)から斎藤氏が住み、織田信長が美濃を攻略してからは雄壮な城廓が築かれ、信長の天下統一の拠点となった。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の役で、岐阜城主織田秀信(信長の孫) は西軍に属したため、東軍に攻略されて落城。城はとりこわされた。

稲葉山(金華山)の荒はてた城あとに登った。
ここには昔のままの清水があるということだ。夏の暑さは格別である。
冷水をたたえている城の古井をたずねて涼をとり、西行法師のように懐古の情にひたろう。
芭蕉真蹟の前書は、「喜三郎何がしは、いなば山のふもとに閑居をしめて、納涼のためにたびたびまねかれければ」とある。
このほかに、芭蕉の岐阜滞在中のよく知られた句に、

夏来ても ただひとつ葉の 一は哉

がある。岐阜滞在の期間、芭蕉の心意は、漂泊によって風雅の心を深めようという決意に支えられており、蕉風形成期にあたるということが出来る。
この句は、漂泊孤独の芭蕉の心が、一つ葉に象徴されている。
他にも数句あるが、あまり知られていないので省略する。
岐阜俳人の芭蕉歓待中、越人(尾張十蔵・染物業、名古屋蕉門の一人)が来て芭蕉の出立を促した。
漂泊の思いは、信州更科の姨捨山の月を見ることに募り、荷兮・越人と名古屋へ出発した。
岐阜滞在期間は一か月余であった。留別の句に、つぎの二首がある。

送られつ 送りつ果は 木曽の秋    芭蕉
草いろいろ おのおの 花の 手柄かな    

十八楼の創業

中河原の賑わい
現在の川原町風景(十八楼周辺)

現在の川原町風景(十八楼周辺)

江戸時代、長良川の舟運は非常に盛んであった。
川湊も上流から上有知湊(美濃市)・小瀬湊(関市)などがあり、美濃の持産物である材木・美濃紙・茶・関の刃物類が運ばれ、中河原湊(岐阜市湊町)を経由して、四方へ販売された。
また、下流の桑名湊からは、伊勢湾の海産物である塩・魚介類・昆布などが中河原湊へ着荷し、ここから、各方面へ移送されていった。
これらの物資(積荷)には通行税が課せられ、それを徴収する長良川役所が、尾張藩によって中河原に設置された。その役所記録によると、享保八~十年(一七二三~二五)の三ヶ年の、一平均、中河原湊から下った舟数は一千七百艘と記録されている。

当時の中河原湊は、これら舟運に従事する船頭や、多くの物資を売買する商人たちで賑わい、長良川畔には商家・船宿などが軒を連ねていた。これらの舟宿の一つが、現十八楼の前身・山本屋と考えられ、その創業の歴史は古く、江戸時代の天保期(一八三〇~四四)に遡る。しかし、史料に見られる創業年代は、江戸末期の万延元年(一八六〇)である。

十八楼遺跡の再興
十八楼初代山本屋 火災のため、一部破損

十八楼初代山本屋 火災のため、一部破損

その史料(「三十四楼記」)によると、中河原湊に当時、「山本屋」という水楼(旅館)があった。この旅館の主人は、かつて俳聖・松尾芭蕉が岐阜を訪れた時、長良川畔にあった賀嶋鴎歩の水楼で鵜飼観覧をした後、鴎歩の需によって、水楼名をつけた「十八楼」の遺跡が、一七〇年余の星霜を経て廃絶したのを再興しようと一念発起した。(屋号も十八楼と改称する)
当時、このあたりの風景は、貞享五年(一六八八)の夏に、芭蕉が記した「十八楼の記」の中で詠んだ「このあたりめにみゆるものは皆涼し」の風情とほとんど変っていなかった。

三十四の美景・三十四楼

天保十四年(一八四三)九月、尾張藩主徳川斎荘の来岐のとき、「黄池なにがし」(長良の豪商・酒造業を営む)で、鵜飼上覧の栄誉があり、藩主から庭の見事さを称えられて、大きな石燈籠を下賜された。このことは、黄池一家のみならず、この地域全体の誇りでもある。とくに、夏の夜の鵜飼情景は、きわめて勝れており、山本屋の水楼から眺める風情は、瀟湘・西湖の十八景以上で、南都八景と近江八景をも合わせた三十四の美景といえる。
それ故に、この水楼は、十八楼ではなく、「三十四楼」と言うべきである。そして最後に結びとして、「涼かぜのなくてもありぬこのあたり」と詠んでいる。
この文は、山本屋(十八楼)の主人に乞われて、万延元年(一八六〇)の夏に書かれたものであるが、残念ながら作者は不明である。しかし、この見事な文体や、芭蕉の故事に詳しいことから、可成りの文人と考えられる。

三十四の美景・三十四楼

南都八景(奈良八景とも言う)…東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、佐保川の蛍、雲井坂の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪

近江八景…瀬田の夕照、石山の秋月、粟津の晴嵐、三井の晩鐘、唐崎の夜雨、比良の暮雪、堅田の落雁、矢橋の帰帆などの琵琶湖の景勝地

三十四楼記

三十四楼記(万延元年・1860)

三十四楼記(万延元年・1860)

三十四楼記(読解)

爰に山本屋といふ水楼有。此家のあるじ、

かの祖翁の
このあたりめにみゆるものは皆涼し

其十八楼のすたれたるをひろひ、絶たるを

つがむとのこころざし浅からず。もとよりこの辺りの風景は瀟湘西湖の一味をこめたること、貞享五仲の夏の記に失せたるものなく、

鵜飼総がらみ(大正時代)

鵜飼総がらみ(大正時代)

豈また勝れたるは、いなばの峯の盛の頃は

花のしら雲にまどひ、たなかの寺、きしにそふ
民村は、杉のみどり、竹のかこみも猶深めり。
さらし布所々にあとたれて、いよ増れり。
わたし舟うかぶ里人の往かひ、いにしへに倍せり。
漁村軒をならべしも、今なほことなり、
黄池なにがしのかたには、鵜飼
上覧のうてなをたて、その庭の面を花の園とか
美称をいただき、高く大なる石燈籠は又
めぐみなるとかや。これ黄池一家のほまれならず、
一郡の光輝なるべし。
夏のよなよなをはじめ、鵜舟のかがり火遠くより

近くなり、めざましき風情、此の高欄にとどめて

瀟湘西湖はさらなり、南都の八つのながめ、近江の
佳景をもこめて、三十四楼ともいはまほしや。
涼かぜのなくてもありぬこのあたり

(一八六〇)
万延紀元の首夏、需によつて

(この項は、岐阜市歴史博物館 筧学芸員のご教示による)

十八楼を支えた人たち

十八楼家系図

万延元年(一八六〇)創業

初代 山本屋・十八楼
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二代 伊藤儀助 (俳号如竹)
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三代 伊藤治助 (儀助親戚)
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四代 伊藤房太郎 (治助長男)
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五代 伊藤末吉 (房太郎弟・後に喜六と改名)
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六代 伊藤久子 (喜六長女)
   伊藤光之助 (久子幼少のため後見人)
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七代 伊藤公平 (久子夫)
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八代 伊藤善男 (公平長女泰子夫)
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九代 伊藤豊邦 (善男長女知子夫)

万延元年(一八六〇)創業

二代 伊藤儀助 (俳号如竹)

伊藤儀助伊藤儀助の名前は、明治十六年(一八八三)の川出文書(川出家は岐阜市長良の旧家)に、「長良新橋橋梁会社」の副社長として、「川原町伊藤如竹」とある。 十八楼先代女将久子は「儀助は若年の頃より俳諧の道に志し、方々の俳人仲間と交流をもって、四方を旅した」と語る。そのためもあってか、旅館経営は明治二十年(一八八七)ごろから、親戚の伊藤治助に譲っていた。余談ながら、儀助の妻は加納藩士族の娘で、茶道久田流の権威者であった。

三代 伊藤治助 (儀助親戚)
十八楼の広告

十八楼の広告

伊藤治助伊藤儀助の親戚。江戸時代の天保三年(一八三二)生れ。儀助が俳諧の道に専念したので、若年のころから十八楼の旅館経営を切り回していた。明治十六年(一八八三)、長男房太郎に家督を譲ったが、八十歳まで長命した。

四代 伊藤房太郎 (治助長男)

伊藤治助の長男。明治二年(一八六九)生れ。明治十六年(一八八三)十四歳で家督相続。その後、父治助と共同で十八楼の経営にあたったが、明治四十年(一九〇七)、父に先立って死去。三十八歳

五代 伊藤末吉 (房太郎弟・後に喜六と改名)

伊藤末吉(昭和三年〔一九二八〕、喜六と改名)

伊藤房太郎の弟、父治助の五男。明治十六年(一八八三)生れである。兄の病死により、十四歳で家督相続。若年であったので、十八楼の経営は老年の父治助が補佐した。
第一次世界大戦(大正三年~七年、一九一四~一八)後の好景気により、長良川畔の旅館は関西方面からの鵜飼客で非常な賑わいをみせた。
十八楼も、この好況で大繁盛し、末吉は十八楼を、当時、珍しい三階建に新築した。内部には、当時珍しかった大理石の大浴場と滝があった。また、三階建物の傍らに、「芭蕉の間」と呼ばれる瀟洒な萱葺の建物があり、芭蕉木像を安置して、翁ゆかりの品が展示されていた。しかし、喜六は昭和八年(一九三三)、改名三年後、五十歳で死去した。
三階建十八楼、絵はがき、十八楼の広告

六代 伊藤久子 (喜六長女)
伊藤光之助 (久子幼少のため後見人)

伊藤久子、 伊藤光之助昭和八年(一九三三)、父の死去により、久子は五歳の幼少にもかゝわらず家督相続人となる。叔父光之助(父の兄)が後見人となり、十八楼の経営にあたった。昭和六年(一九三一)の満州事変を契機に、日本は軍国主義の道を歩み始めた。とくに、昭和十五年(一九四〇)の物資配給統制規則(飲食店の米使用禁止)は、旅館経営の転換をせまられるものであった。
このような戦時体制下で、十八楼は施設の立派さから軍部に接収され、岐阜公園内に設置された航空本部の将校宿舎となった。
昭和二十年(一九四五)七月の岐阜空襲にも、同館はさいわい焼失をまぬがれた。

長良川河畔の十八楼 (昭和23~24年ごろ・1947~48)

長良川河畔の十八楼 (昭和23~24年ごろ・1947~48)

戦後の昭和二十一年(一九四六)、後見人の光之助が死去し、久子は十七歳であったが、十八楼の経営を一身に背負うことになった。
戦後の食糧難・住宅難の中、久子は妹と協力しながら同館の復興に努力した。中でも、昭和二十三年(一九四八)、第一回岐阜長良川花火大会が長良川畔で開 催された時、同館は久し振りの大盛況で思わぬ収益があがり、久子姉妹は、「十八楼を人手に渡さず、二人で守ってきてよかった。これもご先祖様のお蔭です」 といい、涙を流しながら手を取り合って喜んだ。
翌昭和二十四年(一九四九)、久子は大橋公平と結婚し、新生活がスタートする。

七代 伊藤公平 (久子夫)

伊藤公平久子の夫、大橋公平は、久子と結婚後、十八楼の経営に従事。非常な敏腕家で、弟大橋正(取締役総支配人、久子の妹・友子の夫)を片腕とし、同館を岐阜有数の近代的観光ホテルに成長させた。
その足跡は、昭和三十六年(一九六一)、個人経営の同楼を合資会社にして代表社員となる。昭和五十九年(一九八四)株式会社岐阜観光ホテル十八楼代表取締役に就任。その間に、同館付近を買収し、増改築して内部設備の充実を図り、現在の規模に拡充した。
公平は十八楼の発展に尽すのみならず、岐阜市内の旅館・観光事業充実にも大きな貢献をしている。歴任した主な役職はつぎのようである。

十八楼パンフレットより

十八楼パンフレットより

岐阜市旅館組合長、
県旅館環境衛生同業組合理事長
全国旅館環境衛生同業組合連合会常務理事
県観光審議会委員

これらの業績により、平成九年(一九九七)十一月、藍綬褒章受章の栄に浴している。

八代 伊藤善男 (公平長女泰子夫)

伊藤善男善男は、伊藤公平の長女泰子の夫。昭和四十八年(一九七三)泰子と結婚。合資会社十八楼入社。昭和五十九年(一九八四)㈱岐阜観光ホテル十八楼専務取締役 就任。平成十年(一九九八)前社長伊藤公平引退にともない、(株)岐阜観光ホテル十八楼代表取締役社長に就任。現在に至る。
父公平は、旅館・観光事業の発展に種々の要職を歴任したが、善男も父同様、各種の役職について活躍している。

空から見た十八楼・金華山

空から見た十八楼・金華山

岐阜長良川温泉旅館協同組合理事長
(社)国際観光旅館連盟中部支部理事
(社)日本観光旅館連盟名古屋支部理事

九代 伊藤豊邦 (善男長女知子夫)

豊邦は、伊藤善男の長女、知子の夫。平成十五年(二〇〇三)知子と結婚。現在、岐阜観光ホテル十八楼常務取締役として活躍中。
知子は、大学でホスピタリティマネージメントを学び、現在、若女将として活躍中。
鵜飼小路、長良川温泉

鵜飼・十八楼略年表

時代 年号 西暦 事項
飛鳥   7世紀初め 『隋書・東夷伝・倭国』(唐の魏徴・選述)に鵜飼の記事あり
鵜飼記録の最古の文献とされる
 
  8世紀初め 『古事記』 『日本書紀』に神武天皇の伝承として鵜飼記事あり
『万葉集』に柿本人麻呂・大伴家持の鵜飼を詠んだ歌あり
 
  大宝 元 701 この頃、朝廷直属の鵜飼あり。宮内省大膳職雑供戸に鵜飼三七戸所属
     2 702 美濃国大宝戸籍(郡里未詳)に、「鵜飼部目都良V・年三十七」の記事あり
  養老 5 721 仏教の興隆にともない、朝廷殺生を禁止し、大膳職の鵜を放生
平安 延長 5 927 『延喜式』に、年魚(鮎)・鮓年魚・火干年魚などを貢進の諸国中に、美濃国あり
    11世紀初め 『源氏物語』(紫式部)「藤裏葉」に鵜飼の記事あり
赤染衛門(平安中期の女流歌人)が尾張への途中、美濃国杭瀬川で鵜飼を見る
『平治物語』に、源頼朝が鵜飼の者に助けられて、美濃青墓に至る記事あり
 
 
鎌倉 正治 2 1200 鎌倉幕府初代将軍源頼朝が、
家臣の畠山次郎・葛西兵衛尉を連れて相模川で鵜飼を見る
  健治 3 1277 後宇多天皇が亀山殿へ行幸。大井川(桂川)で舟を浮かべて鵜飼を見る
この頃、桂川に鵜飼集団あり
 
室町 永享 4 15世紀初め 世阿弥(足利義満に仕えた能役者)、謡曲「鵜飼」を作る
  1432 室町幕府六代将軍足利義教が、
富士山を観る途中、美濃国黒俣川(長良川)で鵜飼を見る
  文明 5 1473 一条兼良(公家・関白・太政大臣・学者)が
美濃国江口(長良川)で鵜飼を見て、『藤河の記』に記す
  天文 4 1535 濃州修理太夫(斎藤道三)が、後奈良天皇に背腸(鮎加工)五十桶進上する
  永禄 2 1559 西之庄立政寺門前の荷(蓮)池での鵜飼を禁止する
  永禄 11 1568 織田信長、武田信玄の使者秋山伯耆守(信友)に鵜飼を見せる
安土
桃山
文禄 2 1593 豊臣秀次、山城国大井川(京都府桂川)で鵜飼を行なう
岐阜城主織田秀信(信長の孫)、鵜飼を保護する
 
江戸 慶長 8 1603 岐阜奉行大久保長安、鵜飼保護の触書をだす
この頃、鵜匠二一人(長良鵜飼一四人、小瀬鵜飼七人)
 
  慶長 10 1605 徳川家康、岐阜で鵜飼観覧
  慶長 15 1610 江戸幕府、鵜飼保護の触書をだす
慶長年中(一五九六~一六一五)、長良鵜飼は鵜匠一二人
 
  元和 元 1615 徳川家康・秀忠父子、大坂の陣の帰途、岐阜に逗留、鵜飼を見る
同年、河崎喜右衛門、鮎鮨の御用仰せつかる。献上鮎鮨始まる
 
  元和 5 1619 鵜匠、鮨所尾張藩に所属する
  正保 3 1646 尾張藩主初代徳川義直、岐阜に来て鵜飼を見る
  明暦 1655~58 この頃、長良鵜匠一五人か
  万治 元 1658 尾張藩主二代徳川光友、岐阜に来て鵜飼を見る
  延宝 1673~81 この頃、小瀬鵜匠六人
  貞享 5 1688 松尾芭蕉、岐阜に招かれて鵜飼を見る。「十八楼の記」をあらわす
  元禄 1688~1704 この頃、長良鵜匠一四人、小瀬鵜匠七人
  宝永 4 1707 鵜飼漁年々厳しくなり、長良の鵜飼舟七艘に制限。一四人で操業
  享保 7 1722 長良川洪水により、鵜飼の川筋が古川から井川(現在の本流)へ変わる
  享保 14 1729 長良鵜匠七人になる
  宝暦 2 1752 長良川とその支流で、鵜飼の妨げになるものを禁止にする
  天保 1830~44 この頃、十八楼の前身山本屋、長良川畔で旅館営業
  万延 元 1860 山本屋を十八楼と屋号改称。「三十四楼記」選述
  文久 元 1861 献上鮎鮨廃止
明治 明治 元 1868 有栖川宮家進献御用を仰せつかる
  明治 4 1871 長良・小瀬とも鵜飼廃止。その後、鵜飼税を岐阜県へ納めて継続
  明治 11 1878 明治天皇北陸ご迎行の際、随行員岩倉具視ら鵜飼を見る。
天皇に鮎献上
  明治 16 1883 長良新橋橋梁会社副社長「川原町伊藤如竹」とある
  明治 20 1887 この頃、十八楼営業者は伊藤儀助(如竹)から伊藤治助へ交代
  明治 23 1890 長良川筋に御猟場定められる。鵜匠、宮内省主猟寮の所属になる
  明治 31 1898 長良川遊船株式会社設立される
この年九月、大正天皇(皇太子として)鵜飼をご覧になる
 
  明治 30~40 1897~1907 この頃、十八楼は、伊藤房太郎が営業する
  明治 40 1907 この年から、十八楼営業者は伊藤末吉にかわる
大正 大正 7 1918 英国皇太子が鵜飼をご覧になる
  大正 10 1921 この頃、十八楼三階建に改築。
内部に大理石の浴場と高さ一五メートルの滝設置
  大正 13 1924 遊船会社、岐阜市保勝会が買収して営業
昭和 昭和 2 1927 遊船、岐阜市営となる
  昭和 4 1929 市営納涼台できる
  昭和 8 1933 伊藤久子、十八楼の家督相続。幼少のため、叔父光之助後見人となる
  昭和 15 1940 戦時体制下の経済統制により、旅館営業困難となる
  昭和 19 1944 この頃、十八楼は軍に接収され、航空本部の将校宿舎となる
  昭和 20 1945 七月の岐阜大空襲では、焼失をまぬがれる
  昭和 24 1949 伊藤公平が十八楼の経営にあたる
  昭和 30 1955 鵜飼観覧客一〇万人越える
  昭和 34 1959 伊勢湾台風により、長良川畔の旅館街は大被害を受けるが、復興につくす
  昭和 36 1961 英国喜劇俳優チャップリン、鵜飼を見る
十八楼合資会社になり、伊藤公平代表社員となる
 
  昭和 37 1962 昭和天皇が鵜飼をご覧になる
  昭和 45 1970 皇太子(今上天皇)ご一家が、鵜飼をご覧になる
  昭和 48 1973 NHK大河ドラマ「国盗り物語」ブームで、鵜飼観覧客三〇万人越える
  昭和 55 1980 ロビー新築により、芭蕉の十八楼の記をレリーフとして壁面に展示
  昭和 59 1984 伊藤公平、㈱岐阜観光ホテル十八楼代表取締役に就任
伊藤善男、㈱岐阜観光ホテル十八楼専務取締役就任
 
  昭和 61 1986 コンベンション需要の隆盛により、大ホール扇・葵・橘の間を増築
本工事の結果、客室総数一二〇、宴会場数一六をもつ、
県下屈指の大規模旅館となる
 
  昭和 63 1988 伊藤公平、厚生大臣表彰を受ける(環境衛生功労)
平成 平成 3 1991 アメリカ合衆国シンシナティ市で鵜飼公演
  平成 7 1995 伊藤公平、運輸大臣表彰(旅館振興功労)を受ける
ホテルニューナガラ館を買収し、十八楼別館として営業開始
 
  平成 9 1997 伊藤公平、ホテル・観光事業発展の貢績により藍緩褒章受章
今上天皇ご一家が、鵜飼をご覧になる
 
  平成 10 1998 伊藤善男、㈱岐阜観光ホテル十八楼代表取締役社長就任
  平成 14 2002 鵜飼一三〇〇年をむかえる
  平成 15 2003 伊藤豊邦、㈱岐阜観光ホテル十八楼常務取締役就任
七月、露天風呂付客室全十室を改装
 
  平成 16 2004 岐阜市都市景観賞受賞
  平成 17 2005 愛・地球博(愛知万博)開催。鵜飼観覧者および旅館宿泊客増加
露天風呂付大浴場を増築